日記経伝

自分の日記を自分で解説するブログ。

読書トラック走

 文章を読み流すことへの忌避感のようなものがずっとあったのだが、別に一度読み流しても、それ以降その一冊が常に読み流され続けるわけではないのだし、それ自体はよいのではないかと思えるようにはなった。

 

 読書には多読と精読があるなどとはよく言われますが、私はこのうち、精読に比重を置いているという自認を持っています。これは、多読の癖がつくと精読が下手になるという完全な偏見にもとづいて、必ず一定の手順によって文章を処理することを心がけてきた経験によるところが大きいのですが、最近はその認識が崩壊してきているのでご報告します。

 最近、世界史概説の叢書が単行本で30冊届きました。読みきれません。読みきれないことが分かっているのだから一度に買うなというところですが、安かった*1ので仕方がありません。とりあえず、一冊500ページとすれば、総計15000ページが目下のところ処理すべき文書として存在することになります。こうなると、従来行ってきた処理を続けることはかなり億劫になります。

 その従来の処理ですが、基本的には、本文と注釈を往還しながら読み、記述を要約、疑問点や感想を挙げ、 問題意識と結論の一貫性や、結論を論証することは可能か・またはどのような事実があれば結論を支持出来るかを必要に応じて確認するという一連の作業を概ね一章・一節ごとに行っています。*2この方法の利点としては、作業過程で自分の興味と論点が明瞭になるので次に読む本が選定しやすく、うまいこと事実認識に関わる命題を取り出せれば、研究につながる可能性があることです。欠点はお分かりでしょうが、まあ時間がかかりすぎることです。

 結果、一時的な解決策として、手当たり次第に巻を追い、「読んだ」という状態を先に作ってしまうことになりました。最終的に読み返す前提で、叢書の内容を一度視界に入れてしまうということです。量が量なので読み切ることは考えず、序論、結論、本論の順に読み、差し当たり何を言っているのかということにだけ集中して解読するようにしています。すると、この通覧の段階によっても内容のあらましが理解できないということはなく、どのような事実があるか位は案外頭に入るということが分かってきました。勿論、読書筆記をつけた時ほどは内容を理解していないと思いますし、誤解もそれなりに含まれるので、この後に読み返し内容を処理しないというわけにはいかないのですが、全く分からないでもない雰囲気です。

 ここから、多読というか、「読み流し」をすることもある程度は技術として身につけてよいのではないかと考えるようになりだしています。全く等閑にするために読み流すのではなく、後々構成をクリアにするための下読みとして読み流すという感じです。何故今までやってこなかったのかというほど単純なことですが、読み流すことで「読んだ気になる」ことを気にしていました。書評には稀に内容の疑わしいものや、なんか評者の個人的な連想で構成されたもの、本の記述と評者の意見が分離していないものなどがあります。「読んだ気になる」ことでそのような形で見識を取ってしまいかねないと懸念し、執拗に精読の方法をとっていました。実際のところ、上記のような書評は評者の能力や態度に問題のあるものではなく、誰であっても書きかねないものでしょう。そもそも、そのような書評が精読をしていないかというと、そんなことはないんじゃないでしょうか。

 そのような事情から、精読は多読と並行してやっていこうということになりました。精読ばかりするというと虚心坦懐にそればかりを読むということにもなりがちで、結局本を理解できないという事態も考えられますし、とりあえずこういう方針で良いのではないかなと思います。

 

 よしなに。

*1:5000円くらいでした。

*2:概説書の場合。古典の原典などに同様の処理を適用するのは難しいと思います。